1 長谷ゼミの歩みと理念

a. 長谷ゼミの歩み

長谷ゼミは1975年に誕生しました。その頃は、男山団地が出来たばかりで、団地 内にはA棟と100棟の真新しい5階建ての建物が建っていました。A 棟の人々が乗るバス停に「しで原」というバス停があり、そこから少し道を下がった所 に小林商店がありました。小林商店はタバコや果物や野菜を売っている雑貨店でした。

お店は小林弘・弘子夫妻が開いていて、お二人はとても親切な方でした。小林商 店は一階が商店で、二階は広い教室になっていました。小林さんからここで小中学生 を教えたらどうかと言われ、それがきっかけで、小中学生を集めて英語と数学を教え ることになりました。最初は、5〜6人の小中学生が集まってくれてました。

現在の小林商店付近 小林商店

名前は、最初は「つくし塾」としていたのですが、やや子供っぽいとうことがあって、 2年後に教室のあった地名の「長谷(ながたに)」にちなんで「長谷ゼミ」とし ました。その頃、我々は経験が充分でなく、テキストにしろ、教え方にしろ、分からないこと だらけで、試行錯誤の連続でした。

小学生や中学生の内容など誰でも教えられると思って始めたものの、これが大きな誤解でした。 どこをどのように教えれば生徒がよく理解できるかということは、1年や2年の授業経験では とても無理だということが分かりました。テキストにしても最初は市販のテキストを使用し、 その内容に沿って授業を進めていました。

現在の小林商店の裏 小林商店裏の教室

しかし、それもまもなく自分達で思い通りのテキストを作らなければならないと気づきました。 5年ほどたって塾生も増加して小林商店の教室が手狭になったことと、男山の泉の 交差点に新しく林ビルが出来たことによって、私達は教室を長谷の地から、今の美杉会(旧関西 医大)病院の前の林ビルに移転しました。私達の教室は2階にあり、部屋を中央から仕 切り、各部屋に20人が入れる教室を2つ作り、そこで新しい長谷ゼミが出発しまし た。

この頃になると、長谷ゼミ専用の手作りのテキストも完成し、受験指導も経験が 豊富になり、洛南V類などの難関高校に毎年安定的に合格者が出せる塾になりました。 多くの保護者の方々からの信頼感も増したと思われます。この頃は、男山地区に 中学生が多くなったこともあって、春の新入生の募集時期には非常にたくさんの申し 込みをいただくようになりました。

以来、美杉会(旧関西医大)病院の前にある塾として今日まで43年の歳月が流れ、1500名 以上の卒業生を送り出しました。今では、最初の教え子達は50歳を越えており、立 派な大人となって、社会で活躍していることでしょう。

現在の林ビル 林第一ビル(美杉会(旧関西医大)病院前)


b. 長谷ゼミの理念

「勉強の出来不出来がその人間の価値を決めるのではない。社会的マナーを守ってこ そ人間なのだ。出来る者ほど謙虚であれ」。長谷ゼミでは開塾以来、この理念を旨と して学習指導を行ってきました。この考え方が代々の卒業生に受け継がれ、彼らの現 在のそれぞれの生活の場で生かされていると確信しています。

また、私達は、小さい時から挨拶がきちんとできることが大切であると感じ、塾生 が教室へ行き帰りする際、「こんにちは」、「さようなら」ということを厳格に指導して きました。今では、全ての塾生がきちんと挨拶することが長谷ゼミの伝統となって定 着しています。卒業して社会人・大学生になった教え子達が、口をそろえて、長谷で「こんにち は」、「さようなら」ということは、とてもよいことだったと言ってくれます。

玄関 玄関

私達は、保護者の方々に「長谷に通わせれば安心」と言われることを目標に、 きちんとした上質な塾をめざして43年間やってきました。特に、経営理念として 今日まで持ち続けてきたことは、「京都の老舗のように」ということでした。 「間口を広げると味が落ちる」と言われます。

我々は、小さいながら質の高い塾をめざし、多くの生徒が集まった1980年代の 塾ブームの際でも、自分達が責任を持って教えることができる範囲の生徒さんを お預かりすることを心がけました。定員を増やすことなく、また事業の拡大をすることなく 小さな塾としての誇りを持って、質の向上に磨きをかけてきました。地味でも息の長い塾で あろうとやってきました。

そして、いつの間にか43年の歳月が流れ、くずは・男山地区で最も古い塾となってしまいました。

教室の壁の絵 教室の絵

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