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年号
西暦
歴史
 
     
 
天文18年 1549 初代 仁右衛門 近江国蒲生郡南津田村の大工組(西川姓)に生れる(1644年歿)
1560年 織田信長 桶狭間の戦いで今川義元を征す。
 
 
永禄9年 1566 初代 仁右衛門 19歳で商いを志し蚊帳商いを始める[西川創業の年]
この年 木下藤吉郎秀吉は信長の命を受け 美濃の敵前において墨俣一夜城を構築する
1582年 織田信長 本能寺の変で急死
1583年 羽柴秀吉の命により 戦国武将・田中久兵衛吉政が「八幡山城」 および「八幡ぼり」ならびに「八幡山下町」の構築に着手

家伝によれば 初代仁右衛門は この大工事の「工務監督」に任ぜらる
1585年 8月 秀吉の命を受けた羽柴秀次(18歳)が「八幡山城」の初代城主となる
またこの年11月 城主・秀次の命により 安土城下町の町民・商人達が競う様にして八幡山下町に移住を開始 西川家の家族全員も 仁右衛門の生家(南津田村)から八幡山下町(現在の大杉町)に移住
なおまた 西川家の家伝によれば この時初代仁右衛門は「八幡ぼり」の「輸出入調査役」に任ぜらる
1586年 6月「秀次」は「八幡山下町」に13ヶ条の「楽市・楽座」の掟を公布

 
 
天正15年 1587 初代 仁右衛門は「八幡山下町」に本店・山形屋を開店する
1592年 秀吉の「文禄の役」始まる
1595年 豊臣秀次(28歳)冤罪により高野山において死す 秀吉の命により 八幡山城は 廃城となり 武士たちは逐次 八幡の地を離れる
或る大学教授の説に依れば この時「八幡商人」は大いに奮起するところとなり 夫々遠隔の地に出掛けて 商いに成功したと云われている

 
 
慶長元年 1596 この頃 初代 仁右衛門は 4名の男の子を一人づゝ連れて 暑い夏も寒い冬も休むことなく 石川県鳳至郡門前町鹿磯(かいそ)の地に赴いて蚊帳を販売し 帰りには能登半島で捕れた海産物(「塩鯖」「干物」類)を仕入れて戻り 郷里の八幡山下町で卸し売りした
西川家の文書によれば 初代の この商いは慶長7年(1602年)の頃まで続けられた模様である
1598年8月 豊臣秀吉病没
1600年 9月15日の関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は 引き続き彦根の佐和山城に立籠る石田三成の一族を亡ぼし 3日後の9月18日に八幡山下町の八幡神社に参拝 その夜は浄土真宗の八幡別院(北元町)に 将兵と共に一泊した と「滋賀県八幡町史」に見えるが これは天下分け目の戦いと云われた関ヶ原の戦において 八幡山下町の商人達は かっての八幡山城主「秀次」を補佐した 田中久兵衛吉政(東軍の武将)ならびに二代目八幡山城主となった京極高次(東軍の武将)の影響も有って「東軍」徳川家康に味方し 兵糧を支援したものと考えられている
1603年 徳川家康は征夷大将軍と成り 江戸を開拓して幕府を開く

 
 
慶長8年 1603 初代仁右衛門は「鹿磯」の地に長男の市左衛門を残し 自らは販路を美濃の方面に拡め「蚊帳」と共に「畳表」を併せ取り扱い 更に「尾張」「三州」「遠州」の地に店を出した
1615年 大坂夏の陣で豊臣氏滅亡

 
 
元和元年 1615 初代仁右衛門は幕府の許可を得て江戸日本橋通り1丁目に支店店(つまみだな)を開店し 支配人の名を「近江屋作右衛門」と定め 後に「近江屋作兵衛」と改めた

 
 
寛永5年 1628 2代目甚五郎(1582年生〜1675年歿)相続

 
 
寛永年間 1624
〜 43
初代の五子に当たる2代目 甚五郎は 初代の見込んだ通り随所に商才を発揮し 中でも萌黄(もえぎ)色の麻地に 朱色の縁(ふち)をあしらった新しいデザインの「萌黄の蚊帳」の創案は販売の先々で好評を得て遂には「近江蚊帳」の代名詞となった

萌黄の蚊帳
萌え黄色の布地に朱色の縁布をあしらった蚊帳

1633年以降度々鎖国令が発布された


 
 
寛文7年 1667 3代目利助(1622年生〜1683年歿)相続
初代の長子(能登半島の鹿磯に永住した市左衛門)の長子(鹿磯生まれ)に当たる3代目利助は子供の無かった2代目から強い要請を受けて西川家を相続その相続のあった年の7月決算(1月〜6月)から画期的とも云える「勘定帳」の作成が始まった
この帳簿は それ以来実に200有余年の永きに亙り様式も殆ど変更される事なく 店(つまみだな)を始め数多くの西川全支店で毎期必ず作成され八幡の本店に報告された
この帳簿は内容から判断して 明治維新後の政府によって採用されたドイツ方式の簿記仕分帳の「濫觴」と見る事が出来るものでまたこの勘定目録帳について或る大学教授の研究によるとその写しこそはまさに現存する日本最古の勘定帳であろうとの小論文を発表された
これを 関係する西川文書の経緯から追っていくと2代目が商いの伸展に伴ってその商いを勘定項目毎に金額集計して記録する「勘定目録帳」(又の名を算用帳)の必要性を痛感し3代目を促してその仕様を決めさせたものと考えられ今で云う「会社の決算書類」に匹敵するものと云うべく 2代目と3代目の造詣の深さに驚かされる

   店勘定帳
天明8年書写 江戸時代の営業成績を知りうる資料


 
 
天和3年 1683 4代目利助(1663年生〜1715年歿)相続

 
 
元禄前期 1688 下総(しもうさ又はしもふさ)(現・千葉県佐原市)に山形屋支店を開設

 
 
元禄後期 1703 江戸日本橋通り1丁目に「松店」を開設

 
 
宝永3年 1706 江戸町奉行より、蚊帳問屋に指定される

 
 
正徳5年 1715 5代目利助(1678年生〜1751年歿)相続
1716年 享保の改革

 
 
元文3年 1738 日本橋一丁目の店(つまみだな)の外に「畳表」「弓」等の小売を扱っていた江戸京橋角の木屋久右衛門(八幡の同郷で親類)の懇請を受、断り切れず同店の経営を引受け店(かくまんてん)とした

 
 
寛保元年 1741 弓問屋株を「二口」取得して 江戸京橋の店 並びに 日本橋の店と共に夫々従来の商いの外に「弓問屋」を併営した

 
 
延享2年 1745 6代目利助(婿養子)(1718年生〜1791年歿)家督相続

 
 
寛延3年 1750 京都に京店を開設(現在の京都西川)

 
 
明和4年 1767 江戸金座(日本橋本石町)6丁目より出火して「つまみ店」と「角万店」が類焼

 
 
明和8年 1771 7代目利助(1746年生〜1825年歿)相続

 
 
安永元年 1772 江戸目黒行人坂より出火して「つまみ店」と「角万店」が類焼

 
 
天明年間 1781
〜88
7代利助は寛文7年から120年間保存されていた3店(店京店)の勘定帳を整備し総目録をつくる

 
 
寛政年間 1789 三つ割銀制度始まる(現在の賞与・配当・積立制度の原形と云われている)

三ッ割銀預帳
7代利助の始めた三ッ割銀預帳


 
 
寛政11年 1799 別家衆と相談して「定法書」を作り 積立金制度・別家制度を確立する

 
 
享和2年 1802 8代目利助(1776年生〜1841歿)相続

 
 
文化4年 1807 7代目は隠居後甚五郎を名乗り御仕送老分を勤め多額の上納金を納める

 
 
文化9年 1812 9代目甚五郎(1804年生〜1862年歿)相続(7代目が後見人となる)

 
 
天保4年 1833 9代目甚五郎は徳川幕府御用弓師となり帯刀を許される

9代目甚五郎
9代目甚五郎は幕府御用弓師となり帯刀を許される


 
 
天保12年 1841 江戸表を初め関東筋への弓の輸送及び販売独占権が幕府に公認される

東海道・中山道を下る弓荷に差した木札

1841年 天保の改革

 
 
天保14年 1843 西川甚五郎家より尾張藩に1千両を御用金として上納

 
 
天保15年 1844 京都三十三間堂に「弓矢額」を奉納

 
 
弘化2年 1845 10代甚五郎(1822年生〜1853歿)相続

 
 
嘉永6年 1853 11代甚五郎(1848年生〜1902年歿)相続
1853年 米・ペリーが浦賀に来航

 
 
慶応2年 1866 徳川幕府の長州征伐のための御用金1千8百両を上納

 
 
明治9年 1876 大阪市に大阪支店(後の大阪西川、現・西川リビング)を開設する

 
 
明治14年 1881 八幡銀行創設 11代目が発起人の一人となり認可を受ける

 
 
明治15年 1882 2月 八幡銀行設立 西川家の親族に当たる西川貞二郎が25歳で頭取に就任
11代は取締役に就任

 
 
明治20年 1887 大阪支店並びに京都支店が「ふとん」の販売を始める

 
 
明治22年 1889 東京日本橋店においても「ふとん」の販売を始める

 
 
明治24年 1891 11代西川甚五郎 八幡銀行の頭取に就任

 
 
明治27年 1894 近江八幡に八幡製糸(株)を設立する

 
 
明治31年 1898 12代甚五郎(1870年生〜1942年歿)相続

 
 
明治41年 1908 12代甚五郎 八幡銀行頭取に就任

 
 
大正12年 1923 9月の関東大震災により店被災し直ちに再建に着手

 
 
昭和9年 1934 始めての海外支店を京城に開設

 
 
昭和11年 1936 13代甚五郎(1902年生〜1967年歿)相続(12代甚五郎は嘉重と改名)

 
 
昭和14年 1939 奉天支店開設 台北支店開設

 
 
昭和15年 1940 天津支店開設

 
 
昭和16年 1941 東京店・大阪店・京店を夫々法人化し、その後、現在の西川産業(株)及び(株)大阪西川ならびに(株)京都西川となる
1941年 第2次世界大戦始まる
1945年 第2次世界大戦終戦

 
 
昭和41年 1966 創業400年 西川四百年史稿本発刊

 
 
昭和42年 1967 13代甚五郎 近江八幡市名誉市民となる

 
 
昭和43年 1968 14代甚五郎 相続

 
 
平成5年 1993 平成5年4月6日 近江八幡市大杉町17番地・西川甚五郎邸敷地内に[財団法人西川文化財団]を設立 

 
 
平成22年 2010 財団法人 西川文化財団は、公益財団法人の認定を受け、9月1日より「公益財団法人 西川文化財団」に名称変更

 
 
平成28年 2016 創業450年 西川450年史発刊


                                   
 
   

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