琵琶湖疏水
明治の大工事
琵琶湖疏水は、大津市美保が崎から、三井寺(長等山)の下をトンネルでぬけ、蹴上・南禅寺から市街地を流れ鴨川ぞいに伏見、
そして宇治川にはいる運河です。
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疏水は、船で運ばれた物資を大津で陸あげし、逢坂山を人馬で越えるかわりに、琵琶湖と京都を直接船で結びたいという人々の夢が、明治になって実現したものです。
明治維新によって、都が江戸(東京)に移されました。これまで、平安時代から、千年余りも都が続いていたのですから、京都の町の人々はとても不安でした。新しい時代にあった町づくりをしたいと考えました。
疏水計画は、物資輸送の増強を第一目的とし、つぎに、灌漑用水、流水による電力源としての水力利用、そして、上下水道の整備をし近代化を目的としたものでした。
京都府第三代の北垣国道知事は、明治十四年就任と同時に、琵琶湖疏水計画をスタートさせ、責任者として、工部大学校(今の東京大学)の卒業論文で、京都の疏水について、調査研究していた二十三才の若い技術士田辺朔郎を登用し、設計から工事までいっさいのことに当たらせました。

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工事は、明治十八年六月に始められ、精密な測量と設計を基に、西洋の新しい土木技術を多く取り入れて、大量のセメントやダイナマイト・レンガ・木材を使用しました。しかし、この事業はかつてない難工事でした。また、そのころは今と比べて土木機械も、それにに必要な現場技術者もそろっていませんでした。
なかでも、長等山の下を掘り抜くトンネル工事は、日本で全く未経験の二千四百四十メートルにも達する長大なトンネルであり、全国各地から経験者が集まり進められていきました。
工事は、激しい湧水に悩まされ、排水には大型蒸気ポンプが利用され、また数々の困難をのりこえ、三年半かかってやっと貫通しました。一方では、この工事のため、三井寺付近をはじめ大津市西部の井戸が出なくなり、京都市が水道をつくったりもしました。これが、大津市の上水道の始まりです。
最初、疏水は水車による水力利用が考えられていましたが、明治二十一年アメリカで世界最初の水力発電に成功したことが報じられ、さっそく田辺朔郎らがアメリカに渡り視察しました。その結果、水力発電の方が有利であることがはっきりしました。
そこで、初めの計画を変更し、蹴上に発電所が作られました。

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明治二十三年四月、多くの苦難を克服し、人々の期待と田辺朔郎の若い情熱を土木技術に託して、難工事は完成しました。
蹴上と南禅寺では、流水の落差があり、船の上下の移動のために電力で動くインクライン(傾斜鉄道)が設けられました。また、わが国最初の市電を走らせることにも成功しました。
琵琶湖疏水の完成により、通船数はピーク時には年二万隻、乗客数も三万人近くまでに達しました。水力も、電力を始め精米・製粉など、各種の小規模な工業に利用され近代化がはかられました。けれども、電力の使い道の大部分は、電灯や電車であり、京都の近代化は進展しませんでした。

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しかし、明治時代に困難にまけることなく、大規模な土木事業を日本人だけで実現させた不屈の精神と努力、そして、都が移され、さびれていく運命に置かれていた京都を復活させたことは忘れてはならないと思います。
現在も京都市民の大切な飲料水として流れている琵琶湖疏水は、大津・京都にとって近代の史跡であり、誇れる文化財としてこれからも守り続けたいものです。
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知ってるかい? おおつ 未来の主役たちへより抜粋 .