于 右任  略歴(ユ ヨーレン・ウ ユウニン)   
1879年 陳西省三原県東関(西安の北方)に生まれる。名は伯循、字は右任、後、字で世に通る。 父は新三公・母は趙太夫人。
1881年 母卒す。以来、伯母房太夫人に養育される。
1885年 初めて塾に入り、三水の老儒第五先生につく。
1889年 毛班香先生に就いて古近体詩を学び、時に草書を習う。家貧しく、爆竹工場の臨時傭い などで働きながら、家計を補け、また文具の資とする。
1895年 首席で三原県学に入学する。
1898年 歳試成績1番であったことから、官費生にあてられ、「西北の奇才」の誉あり。
高仲林夫人と結婚。
1903年 郷試に合格、挙人となる。
1904年 自作の『半哭半笑楼詩集』の発刊に際し、革命を図るとして、清廷の忌恨するところと なり、挙人の資格を剥奪され、逮捕の厳命下るも、李雨田の急報で危うく逃れ、上海に 亡命。馬相伯先生の震旦学院に入り、名を劉学裕と易える。
1905年 この年、日本に赴き、新聞事業を考察、募金を募る。東京で国父孫文先生に会い、同盟 会に加入。
1907年 神州日報を発刊する。
1908年 父新三公病卒。
1909年 3月民呼報を発刊する。8月民吁報を発刊する。民呼報は内政に、民吁報は国際正義の 伸長にそれぞれ重点を置く。僅か50日で発禁となり、投獄される。出獄後、2度目の 来日をする。
1910年 9月民立報を発刊する。亡命時期に創立した最後の新聞であり、革命に対する影響力が 最も大きく、辛亥革命の背骨となる。
1911年 辛亥革命成功。
1912年 団父孫文先生大総統に就任。交通部次長(運輸次官)に任ぜられる。
1913年 第2次革命に失敗。民立報停刊となる。3度目の来日をする。
1918年 靖国軍総司令に就く。
1922年 上海大学創設。
1925年 孫中山先生北京で逝去。中華民国国民党中央執行委員に選出。
1927年 中国国民党中央特別委員会委員となり、監察権を担当する。
1931年 監察院院長に就任。上海に草書社が設立される。
1934年 標準草書社が発足する。
1936年 先生編著の『標準草書』第1版が上海の漢文印書局から出版。以後第10次修訂本まで 版を重ねる。
長年購蔵の古碑大小390塊を西安碑林に寄贈。
1943年 『大平海論文』を発表。自ら大平老人と号する。印は楊千里刻である。
1949年 政府が台湾に渡るのに従う。
1956年 国家文芸賞を受ける。
1958年 日中文化交流書法展覧会名誉会長に就任。
1962年 政府から先生肖像入りの記念郵便切手(新聞元老記者)が発行される。この年、身後を 嘱して「葬我於高山之上…」の作歌あり。
1963年 中国文化学院大学では、先生の誕辰を記念して学内に「右任楼」を設置して、崇敬の意 を表し、昿代の書聖と敬仰される。
1964年 『右任先生詩文集』『右任墨存』2巻が出版される。11月10日、栄民総合病院で、 監察院院長の現職を最後に溘然と長逝される。総統の発令により公葬。霊襯は、先生の 意志により、台北市郊外大屯山頂の墓園に安葬される。(清末の挙人。監祭院長の任に あること30余年。詩文に長じ、書をよくする。標準草書を創始し、芸林人士に「当代 の書聖」と仰がれる。)
1986年 北京の革命博物舘で建国以来最大の、于右任書法原作展覧会が開かれる。
1987年 陜西省(中国)で「陜西于右任書法学会」結成される。
1989年 中国で「于右任杯全国書法大賽」(書と篆刻のコンクール)催される。
生誕110年を記念して、京都・高崎で記念展催される。
1990年 北京で、日本・台湾標準草書同門書法展催される。
1991年 柳原書店(日本)より『于右任書法集成』出版される。
1994年 故郷に「三原于右任紀念館(約2000坪)」完成。
1999年 京都文化博物館において「于右任書展」が催される。作品120点展出。