◎あらち山道と鞆結駅
平安時代(927年)に編さんされた『延喜式』(当時の日本国内の様子が記されています)によれば、北陸への交通の重要地点であったマキノ町域を奈良時代には官道(今の国道)が通り「鞆結駅」が設置されていました。「駅」とは、当時の官道の重要地点につくられ、通行する役人に人足、馬、食料や宿舎を提供する施設で「うまや」とも呼ばれました。「鞆結駅」は、湖西最大の駅であったこともしるされています。
この頃の北国海道(西近江路)は、酒波(今津町)から森西〜辻〜石庭〜と山すそを通り上開田から仲仙寺を越えて浦〜小荒路〜野口を経て、敦賀の「松原駅」につづいていました。
「鞆結駅」がおかれていた位置については、「鞆結・北鞆結・大道東・大道西」などの地名が残る「石庭説」と、「鞆結神社」が現存する「浦説」の二つがありますが、"昔は石庭に鞆結神社があって講で管理していたものの、管理が行き届かなくなったので御輿をつけて浦へもっていった"という言い伝えもありますので、石庭にあったのではないでしょうか。
この時代小荒路から敦賀への道は、「あらち山道」とも呼ばれていました。天智天皇が大津京に遷都(667年)された頃に、古代三関の一つである「愛発の関」(他には、不破の関、鈴鹿の関があります)が当町の国境から越前の国に入ったあたりにおかれましたが、ここから「あらち山道」と呼んだようです。

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