山崎の道標
ひだり京とあるのは北国海道の
分岐点であることを示している。

 ◎七里半越と海津湊
 海津湊は、湖上交通の北辺の港町として早くから開けていました。建長6年(1254)の「古今著聞集」には、海津にお金という力持ちの遊女がいたこと、また御所の警護に上京する東国の武士が、まだ日の明るいうちに一泊したことなど、人馬や船、荷物の往来が頻繁でたいへん繁盛していたことが記されています。
 さて、北国海道は平安時代の中頃からルートが変わり、山崎から海津、小荒路を経て敦賀に至る道となり「七里半越え」とも呼ばれるようになりました。海津から敦賀までの距離からこのように呼ばれたようです。ちなみに、今津から小浜までは「九里半越え」(若狭街道)と呼ばれました。
 鎌倉時代に入りますと、北陸地方の荘園から京都、奈良方面の荘園領主へと年貢米などの運送に琵琶湖の水運が大いに利用されるようになり、七里半越えのにぎわいとともに海津湊が水陸の中継地として一大発展をするようになりました。
 中世以降は、つわもの達の往来も激しくなり、義経記、平家物語、源平盛衰記等でも海津の名前が出てきますし、源義経、木曾義仲などにまつわる伝承が、今も海津やその近辺に数多く残っています。さらに浅井三代記等では、海津にかかわって浅井亮政・長政、海津政元など武将の名も登場します。