◎北国海道と海津宿(近世)
 江戸時代に入ると北国海道はますますにぎわい、人や荷物の運送に重要な役割を果たしました。
 マキノでは、海津に「宿」がおかれました。海津は、軍事、交通、経済上の重要性から幕府の直轄地とされましたが、泰平の世が続くと人の往来や荷物の出入りも多くなり、湖上船便の大型化とともにますます活気づいていきました。
 野口には「剣熊の関」がおかれました。江戸時代の関所は通行人の検査が厳重で「入り鉄砲に出女」といわれるように、鉄砲と女性の取り調べが行われましたが、剣熊の関では北国海道における女性改めが主要な任務でした。
 脇街道の整備も進みました。牧野から赤坂山を越えて若狭へ通じる「赤坂海道」(粟柄越え)や小荒路から万治峠を越えて大浦へ抜ける「万治越え」がそれです。ハイキングなどでにぎわう赤坂山自然遊歩道には、今も当時のおもかげが石畳に残っています。
 かっては大いに栄えた湖上交通は、寛文の頃(17世紀後半)に西廻り航路(日本海から下関、瀬戸内海を通って大阪へ至る航路)が開かれて以降、大量の荷物の運送は大幅に減り、海津は大浦と荷物を分けあうこともあって、以前のようなにぎわいはなくなりました。