御由緒
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●神使『猪』と綿向神社




御本殿横の大猪像






亥年の正月のみ授与される
焼き印入りの特製絵馬
   当神社と猪の関係は御鎮座の由来にさかのぼる。社伝によると今からおおよそ1500年前の欽明天皇6年(西暦545年)、蒲生の豪族であった蒲生稲置三麿(がもうのいなぎみまろ)と山部連羽咋(やまべのむらじはぐい)が綿向山に猟に来てい時、一天にわかに掻き曇り、4月(新暦の5月)というのに大雪となった。二人は岩陰で雪の止むのを待ち、外に出て見ると大きな猪の足跡を見つけたという。夢中になって足跡を追いかけていくうちに、何時しか頂上と導かれ、そこに白髪の老人が現れた。その老人は「私は古くに出雲の国よりこの山に来ているが、誰も気付かずにいる。この山の頂に祠を建てて私を祀れ」と言って消えたという。二人は早速このことを時の朝廷に奏聞し、この綿向山の神様の御託宣に従い祠を建て、四季のお祭りを勤めたと伝わる。

 この謂われをもって、猪は綿向大神の神使いといわれ、御社殿や神輿、石灯籠などの装飾としても使われている。

 また12年に一度の亥年にのみ、当神社に伝わる猪の焼き印を押した絵馬が頒布され、作家 司馬遼太郎氏の『街道をゆく』にも紹介されて有名である。平成19年の亥年には、氏子篤志家の奉納により、御本殿の横に大猪の石像が作られて、神様を見守っている。



●『街道をゆく』掲載記事
 

〔1984年(昭和59年)1月20日発刊 週刊朝日
      連載紀行第619回 街道をゆく 近江散歩 ① 司馬 遼太郎 より抜粋〕


 蒲生郡日野の町を歩いた日は晴れていたが、町をつつんでいる陽の光までがぎらつかず、空に一重の水の膜でも覆っているように光がしずかたった。

 やがて家並のあいだに、大きな鳥居があった。くぐると、境内の結構や社殿がふしぎなほどに品がよかった。境内に林泉があり、ひとめぐりして鳥居を出た。鳥居の前から家並のゆきつくはてをながめてみると、向こうの屋根の上に淡く雪を刷いた岩山のいただきがわずかにのぞいていた。それが奇妙なほど神々しくおもえたのは、私の中にも古代人の感覚がねむっていたからに相違ない。もう一度神社に入りなおして社務所の若い神職にきくと、ああ綿向山でございますか、あのお山は綿向神社にとって神体山でございます、ということだった。神社は延喜式の古社で、建立はそれ以前であり、社殿がここに造営されたのは白鳳十三年
(六八五)であるという。

 京都のホテルに帰ると、古い友人が訪ねてくれていた。世の事に疲れきっていて、話し相手をほしがっている風情だった。二日目に、ふと、近江をお歩きになると、疲れがなおるかもしれませんよ、といってみた。漠然と歩くのも何でしょうから、蒲生郡日野町の綿向神社に行ってみられるといいかもしれません、と言い、いかにも近江通であるかのように滋賀県地図のその場所に赤いマルをつけて渡したりした。


 やがて、友人は近江からもどってきて、意外にも綿向神社の社務所で買ったという小さな絵馬をくれた。杉材の絵馬に、イノシシの焼印が捺されていた。
「ご存じなかったんですか」友人は、いった。
「あのお宮では、十二年に一度、イノシシ年にだけこの絵馬を出すのだそうです。ことしはイノシシ年ですから」


 私は干支に鈍感で、この正月がイノシシ年のはじまりであることも気づかなかった。まして綿向神社がイノシシ年の年男のための神社であることも知らなかった。この友人と私は同年で、干支はイノシシなのである。この偶然のかさなりが友人の気分をあかるくし、私まで余慶を頂戴した。