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祭神の御神徳 |
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御食津大神(みけつのおおかみ) |
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食物を主宰する神(宮中においては、天皇の食膳を守る神として神殿にお祀りされています。) |
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宇迦乃御魂神(うかのみたまのかみ) |
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稲の霊(稲に宿る神秘的な霊をいう。「宇迦」は「うけ」(食物)の古形。ここでは 稲の霊をさします。) |
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大年神(おおとしのかみ) |
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稲の稔りを司る神(漢字「年」の字義は「稲の稔り」穀物のなかで稲の稔りが一年 かかることから「年」の字が用いられます。) |
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神社の歴史 |
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当社の鎮座は孝安天皇(人皇第六代)28年とされています。御祭神は五穀豊穣の神として古代から里人の崇敬篤く、往古は12の末社と別当6ヶ寺、氏子は25邑を数えました。また、筑摩は桓武天皇(人皇第五十代)の御代に内裏大膳職の御厨が置かれた地であり、延久2年廃されるまで御厨の鎮守として尊崇されました。社伝によれば継体天皇(人皇第二六代)は越前から京都に遷幸のとき、社の側に行宮を設け、その際に社殿を再建し神域を定められたとあります。さらに後鳥羽院は正治元年名越の行宮へ御幸のみぎり、当社にご参詣になり神領として当国浅井郡田河荘を寄進されました。神階は文徳天皇(人皇第五五代)仁寿2年従五位下がさずけられ、爾来累進し、後嵯峨天皇(人皇第八八代)の勅願あって寛元3年ついに正一位に叙せられ、併せ神領が寄進されたとあります。このほか源頼朝も神領として伊勢国多気郡丹生郷を寄進され、南北朝期には京極秀綱(伊吹太平城主)が社殿を造営し神領を寄進されるなど、朝野の尊崇をあつめました。降って江戸期には、彦根藩主井伊氏の崇敬を篤くしました。現在の氏子圏はかつての冨永荘に属した筑摩・上多良・中多良・下多良の四か字となっています。 |